- オウトウの栽培が何世紀頃から行われていたのかを示す記録は見つかっておらず、推測として、上古時代には、北部温帯地方一円にオウトウが野生し、これらの果実(種子)が人間や鳥獣などによって方々に伝播されたのではないかとされており、ブドウなど人間との係わり合いの古い果実(木の実)は、原生中心地から西へあるいは東へ伝播され、それぞれ長年の間に微妙な変化をしながらある地域に定着しているが、オウトウの栽培も同様に広がったものと推測され、これらを裏づけるものとして、スイスの湖棲民族の遺跡や、南ヨーロッパの前史時代の地層堆積物から古いオウトウの核(種子)が発見されています。
- 栽培の歴史について記録がやや確かなのは酸果オウトウで、原産地はアジアであり、ここからギリシア・ローマに伝えられたと思われ、ギリシアが小アジアから輸入栽培したのは事実のようで、テオフラストスが書いた『植物の歴史』のなかにオウトウの記事があるといわれます。
- ヨーロッパにはオウトウ栽培について古い歴史をもつ国々が多いですが、なかでもイタリアには、ローマ帝国時代(紀元前65年頃)、ルカルス将軍がセラサスでみつけたという酸果オウトウの栽培普及記録があり、その後、ヨーロッパ各地に広がったといわれ、ドイツやイギリスでもローマから輸入したオウトウを増植し、更に品種改良も行われたようで、16〜17世紀頃にはオウトウに関する著書が発行され栽培も盛んになったといわれます。
- アメリカにおけるオウトウ栽培は、北アメリカに移民したイギリス人、オランダ人によって始められたという説と、同じくフランス人移民によって始められたという説があり、アメリカにおけるオウトウ栽培は、果樹の中でも古い歴史をもち、18世紀のはじめにはカリフォルニアやオレゴンに大栽培地ができ、熱心な研究者により台木や新品種の育種栽培が行われ、19世紀にアメリカのオウトウは著しく発展しました。
- 中国では甘果オウトウ・酸果オウトウのほかに、中国オウトウ(シナノミザクラ)、毛オウトウ(ユスラウメ)が果樹として取り扱われており、中国オウトウは前漢時代から宮廷の果樹として特に重要視され、現在でも長江流域、大炮山麓に野生林があるといわれます。
- オウトウは本来、日本在来の果樹ではなく、1872年(明治5年)に北海道開拓使がアメリカから25品種のオウトウを導入したのが最初で、また、1873,1874年(明治6,7年)頃に勧業寮派遣の中国農事視察団の一行が桃苗木と一緒に持ち帰ったシナノミザクラ(中国オウトウ)が導入され、1874,1875年(明治7,8年)頃には政府がアメリカ・ヨーロッパから多数のオウトウ品種(甘果オウトウ・酸果オウトウ)を導入し、三田育種場において苗木を養成し、これを東北・北海道やその他の諸県に配布し栽培させた記録があり、その後、政府や民間人の努力により、諸外国からオウトウの輸入が行われ、東北・北海道・甲信地方で栽培が普及しました。
- 日本独自のオウトウ品種は1910年(明治43年)に「北光」が発表され、1912年(大正元年)に「佐藤錦」が発表され、1975年(昭和50年)以降、佐藤錦の本格的な栽培が行われています。
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